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光のビームを登れるか? オチのある物理学パズル

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光のビームを登れるか? オチのある物理学パズル

二人の酔っ払い、一本の懐中電灯、そして「光のビームを登ってみろ」という挑発。一人が明かりをつけ、相棒に光の柱をよじ登れと挑む。もう一人は馬鹿ではないので、喜んで登ると答える——ただし途中で相手がスイッチを切れば落とされる、と。観客は笑うが、このジョークは何十年もの間、物理学者たちを静かに悩ませてきた。

この演目は中国の演芸の定番で、故・相声(そうせい)の名手、侯宝林(こうほうりん)が広めた。身近なイメージ——目に見える光の筋——を固体のように扱うところが面白さの源だ。まず問われるのは、そのビームが本当にそこにあるのかということ。きれいな空気の中では懐中電灯の光は見えない。見えているのは、塵や霧、煙によって散乱した光だ。光の柱は「物」ではなく「道筋」であり、光子の流れが粒子に当たって跳ね返り、目に入っているにすぎない。

仮に登れたとしよう。光子は運動量を持つので、光のビームは当たったものに圧力をかける——太陽帆や光ピンセット(集光したレーザー光で微小物体を保持・移動させる技術)の原理だ。しかしその力は途方もなく小さい。ポケット懐中電灯のビームの圧力は、人間どころか砂粒一つを重力に逆らって支えるにもあまりに弱い。恒星規模のサーチライトが必要だろう。

次にスイッチ。光は秒速約30万キロメートルで進むため、懐中電灯のスイッチを切っても、ビームは煙の輪のように漂って消えることはない。最後の光子はほぼ瞬時に飛び去る。ビームにまたがっていた人は、柱が消えたから落とされるのではない。ただ暗闇に取り残され、通常の重力に従って落ちるだけだ。その意味で、酔っ払いの心配は理由こそ間違っているが、もっともではある。

物理学者はもっと正確に言う。光は剛体の梯子ではなく、伝播する電磁波だ。その運動量は波そのものが運び、光源が止まれば波は放出されなくなる。立つべき構造は残らない。スイッチを切った後、ビームはどうなるのかという問いは、実は光とは何か——物なのか、出来事なのか、それともエネルギーの動き方の記述なのか——という問いなのである。

このパズルは相対性理論にも触れる。光速でビームに乗れたとすれば、懐中電灯自身の座標系は奇妙な振る舞いをする——時間の遅れと光速不変の原理により、「光子に追いつく」という考えは厄介なものになる。アインシュタインは十代の頃、光のビームを追いかけることを想像し、その思考実験が特殊相対性理論へと彼を導く助けになった。酔っ払いたちも、それなりに良い仲間である。

答えは重層的だ。散乱させるものがなければビームは見えない。押す力が無視できるほど小さいので、その上に立つことはできない。そして光が消えれば落ちる——柱が引き抜かれたからではなく、そもそも柱など存在しなかったからだ。このジョークが生き残るのは、それが嘲笑う直感があまりに頑固だからだ。私たちは光を固体のように扱うが、光は私たちが知る最も捉えがたいものなのである。

だからこそ、このネタは物理の教室や科学読み物で繰り返し登場する。笑いから始まり、運動量、散乱、光速で終わる——日常の言葉が並外れた物理学を隠しうるという注意喚起だ。次に誰かが懐中電灯を振ったとき、ビームはそこにある。ただしそれは、空気中の何かが光を受け止めているからにすぎない。

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